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 私は、2ちゃんねる転載ブログは、あまり見ないように(心がけて)なったのですが、それでも、はてなブックマークのトップエントリー(皆が注目している記事)に入っていると、ついつい読んでしまいます。最近、読んで、感動したのは、以下の記事。

俺:大学生、さえない男

たまの休みや講義の空きにゲーセンに行って格ゲーをやるのが好きだった

そこであった話を、ちょっと書かせて欲しい

ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk

 最終的に思ったのは、「実話かな?創作かな?」と思い、「いや、そんなことはどうでも良い。何であれ、自分の感動だけは本物。」という気持ちに至り、その部分には、言及しない…と思っておりました。

 しかし、情動的に、エントリに書くことになってしまった…。勿論、「書かない」という選択肢は、まだ、ありますが、それができない自分と、その発端が「憤怒」なのです。罵倒が、罵倒を生む…それがインターネットの負の連鎖だと分かっていても。

 私が、冒頭に挙げた記事を参照されている、影響力のある、有名なブログがありました。私も、ちょいちょいと閲覧していたブログでした。以下の記事です。

要約すると、ゲーセンで出会った女子が難病でした。みたいな作り話で愚民あぶり出し装置といった感じ。



「不誠実な作り話」は大嫌いなので、何の意味もないけど文句を垂れ流しておく。

 自分は、作り話を実話といって流通させる構造が嫌いだ。

実話として流通する嘘に大喜びする愚民:島国大和のド畜生

 私が、何に憤怒したか…。先ずは、自分が「不問」にしていた部分に、件の記事を「作り話」と言われたことか…ではない。少し心が乱れたけど、個人の「好き嫌い」は、個人の自由だ…というくらいの柔軟性はある。

 私が、先ず、腹が立ったのは、「ゲームセンターの話」を肯定的にとらえた人を、十把一絡げに「愚民扱い」した、その書き出しです。私は、氏のブログを読んでいても、彼は私を知らないだろうし、なのに、一方的に「愚民」呼ばわりされることに、怒りを感じました。

 インターネットには「煽り芸」なるものがあることは知っています。なので、私の怒りがインターネットにおいて、幼稚なモノだというのも、自覚しています。ですが、先日考えていた「喫煙者は会ったこともない人に『喫煙者』という理由で嫌われるか?」という部分と、重なる部分があり、『愚民』呼ばわりされたことに、一矢報いるために、書かずにはいられなくなりました。


 その過程で、周辺のエントリも何件か読んでみたのですが、そこで感じたこと、教えられたことは、「『事実である』と語る嘘、創作は本当にツマラナイ物か?」ということでした。好き嫌いは、別として。私の「創作であったとしても自分の感動は本物」という心境を、肯定してくれる考えでした。

 世の中的には、『嘘』は禁忌とされてますけど、実は、物語の語り口はとして、「事実である」ということは、よく使われてます。怪談とかもそうですし、自分のことを思い出しても、「知り合いの知り合いの知り合いの話」とかで話を始めたら、暗に「嘘だよ」って、相手に伝わっていると思います。

 特に匿名の投稿が基本とないっている2ちゃんねるにおいて、「事実である」という語り口、「創作である」と宣言しない…ということは、「嘘」とは、また、別のニュアンスが含まれるのでは?勿論、書きこんでいる人、IPアドレスの特定とかはできるのですが、それでも、匿名である…ということは、「誰かであるけど、誰かは分からない」、「この世界のどこかで起きているかもしれない」というニュアンスが出て、それは、一種のファンタジーなんじゃないか…と思います。匿名で、事実を語ること、事実という語り口で創作を語ること、というのは「嘘」という言葉で言い表せないくらいの、文学的な意味合いが生まれているのだと思います。

 特に2ちゃんねるというフィールドは「嘘を嘘だと見抜けないと難しい」フィールドであると聞いてます。嘘だと怒る、憤る気持ちも分かりますが、物語に関しては、そこで得た感動を信じてよいと思いました。勿論、人を傷付ける嘘、罵倒などは、許されるものじゃあないと思いますが。

 最後に、はてなブックマークコメントなどを閲覧していると、「嘘だとしたら若くして亡くなった娘さんはいなかったということですね」という感じの、コメントが寄せられていました。私も、憤怒することなく、そういう優しい結論、もしくは、ウィットに富んだ結論に至りたいな…と思いました。

 こまねち。